「 晴美ファイルZ 幸せとは? 」


鳥に限らず、生き物を飼うって、楽しいことばかりじゃないことは承知のうえで、
皆さん飼っていると思います。
鳥を飼っていて、人が癒されると思うのは、
元気よくさえずったり飛んだりしてる姿を見てるときだと思うんです。
でも、自然から遠ざかって人工的な環境の中で生活する飼い鳥は、
6〜7歳(人でいう中年)を過ぎると、人と変わらない病気になる可能性が高くなります。
わが家のインコのように、ヒナのうちから病弱だった場合も多いと思います。
それに、鳥は病気を治療できる獣医さんも医療方法も限られていますから、
飼い主は、いろんな苦渋の選択をせまられます。
そして、その判断基準が自分の中にないと、何を選んでも、これでいい、
と思えなくてパニックになってしまいます。
飼い主は、そんな不安ゆえに、鳥が健康で元気でも、それ以上の状態を望んだりします。
その様子が、飼鳥の医・食・住について「ああでもないこうでもない」状態な
んだと思います。

健康雑穀のHPを知り、丸さんとメールを交換する過程で、
自然を意識した生活の中で、自然の一部である鳥と一緒に生きている、
という考えができるようになるまでは、
私もまた「ああでもないこうでもない」状態だったと思います。
そして、人も鳥も「自然の中で生かされている」ことを意識するまでは、
鳥を飼うということは、一喜一憂の毎日でした。

思えば・・・・。
昨年10月にインコをひきとってから、その飼育には、さんざん振り回されてきました。
愛鳥家は、小鳥に癒されるといいますが。 私は、小鳥に癒されたか。
とんでもない。
私は、毎朝、ケージの覆いをとるのが憂鬱でした。
冷たくなってたらどうしよう。 朝はいつもそこから出発しました。

死なせたくない、の一心から食餌に気を使い、、亜鉛中毒を心配して、ケージを
ステンレス製に変え、飼育本に書いていること、獣医さんのいうこと、それこそが、
病弱インコを助けることと信じて、よさそうだと思えば飼育方法を変えてきました。

小鳥たちは命をとりとめたけれどなかなか健康にはなりませんでした。
なぜか・・・。

そんなとき、たまたま、丸さんのバーズレストランに流れ着きました。
ほんと、意思もなく漂着したんです。

丸さんの「自然体で生きる」を実践している今この時を
HPで見て、ぞくぞくっとしました。
送られてきた雑穀を見て、食べて、味わって、満足した。
世の中には「変えていいもの」と「変えてはいけないもの」が
あることを知りました。

変えてはいけないもの、それは「農」と「食」。

そこで、初めて「生きる」とはどういうことなのか、自分の頭で考えたように思います。

丸さんとのメール交換のおかげで、私はいろいろな
ことを知り、気付かされました。

そして、鳥たちは、ケージの中から、人工的なものが、
一つなくなるたびに、元気になっていきました。 活き活きしています。
たどりついたのは、思いもかけず、自然にまかせて生きることでした。

それからは自然を意識し、自然に即した生活を心がけることで、
随分いろんなことに気づくことができました。
すべては自然の導きのままにあり、大安心の中で生活していることを思えば、
否定的にならざるを得ない病気や死に対する気持ちも、
それが運命として、抗うことなく受け入れられるように思います。

おかげで、今は、3羽のセキセイと暮らす日々に何の不安もなくなり、
何があっても、幸せな日々に感謝することができるように思います。 
(06/2/28)

転生悟入 
もはや何物も恐れずという境地に入られたようですね。 何があっても自然の配慮に感謝する
心持が出来上がると、もう恐れる事はなにもありませんね。
自然のままにそのままに。 小鳥も人も自然の中で自然の一部として供に生きて行く以外には
ないのだろうと思います。

幸福の青い鳥
自然の法則はプラス・マイナスのバランスで成り立っておりどちらも必要なものです。
病気や死というマイナスも、それを通じて気ずきという大いなるプラスを その人の心にもたらして
くれます。
どんな物事もけっして意味なく偶然にやってくるわけではありません。
竹姫さんは、返品された病弱な三羽のインコを引き受けました。
これまでのお世話の過程は試行錯誤のマイナス生活だったかもしれませんが、しかしそのインコ
たちが見事に゛大自然の中にある大安心感゛へと導いてくれました。
病弱な三羽のインコがまさに幸せをもたらす幸福の青い鳥だったのかもしれませんね。(06/2/28)


小鳥に対する考え方や姿勢は、私の家族や人間関係はもちろん、
生活環境、地球環境への思いなど、すべてについてあてはまるものです。
最近、特に思うのは、人と人とが、わだかまりなく素直に「繋がる」ことの大切さ。
そして、人と自然が「繋がっている」ことを実感するときの安心感。
一人でいても、一人じゃない安心感とでも言いましょうか。
これに気づくか気づかないか、また、いつ気づくかで、人生そのものが
でんぐり返るような心境の変化を経験するように思います。
しあわせの青い鳥は、誰でも身近にいるんですよね。
ただ、いるのに気づいてないだけで・・・。

これは、丸さんがいつもおっしゃるように、現実の姿や情報を見たり聞いたり、
それを頭で理解してどうの、という知のレベルではなく、
形の見えないエネルギーみたいなのを信じて、すべてを委ねたとき、
体全身をもって感覚として感じられるものなんですね。
私は、今は、そのエネルギーのようなものを、鳥にも胡蝶蘭にも、子ども達にも、
夫にも感じることができるようになりました。
でも、本当に、そのような感受性を自分がもっているとは、思いもしませんでした。

まだまだ、いろんな人生の雑事に迷いがないわけではありませんが、
大道を外すことはないでしょうし、ビクビクしながら振り返ることもないと思います。
(06/3/3)  竹姫より。

「繋がる」ことの大切さ。 
命の織物という考え方があります。 この地球には人間だけが生きているのではなく、あらゆる
生命が織り成してひとつの生命の織物をなしているのだという考え方です。
お釈迦様は「有情(命あるもの)非情(命ないもの)同時成道、山川草木悉皆成仏」と言われました。
存在する全ては仏の命の現れであるという意味です。
日本古来の神道では八百万の神がいたるところにおいでになり、全てのものに神が宿るという
のは、ごく当たり前の民間信仰でありました。
全ては一つである。 これは納得はできてもなかなか実感はしにくいことです。
隣の人が食べたからといって別に私の腹が膨らむわけではなく、皆があくまでも一人の人間と
して切実に生きていかなければならないのが現実だからです。

肉体・理知・本質
普通私たちは肉体が私であるという観念を植え付けられて人生をスタートします。
世の中も学校教育もこの物質主義を基本として成り立っています。
ですから肉体の本能を満足させる事が人生の目的となりますし、世の中で起こる様々な問題も
その原因は全ては自分さえよければそれで良いという我欲にあるわけなのですが、この肉体を
私と思い、本能・欲望を満足させる事を人生の目的とするならばこうした結果、世相となる事も
仕方がないことです。
勝ち組・負け組みと相変わらず勝ち負けの相対世界で生きているわけです。

反面、それではあんまりだ、人間とはもっと高尚な生物であるはずだと思う人たちは理性に従って
盛んに理知を増やそうとします。 考えて考えて、無限の理知地獄に陥ってしまいます。
理知で全てが解決するならそれで良いのですがなかなかそう上手くはいきません。
理知には際限がなく、これを極めつくすという事はとても困難な事だからです。
孔子様は二千年も昔にこう言われました。
「学んでいよいよ苦しみ 極めていよいよ迷う」
南海の酋長ツイアビが言われたように、考えるというのはとても重い病気なのです。

肉体(知能)も心(感情)も私たちがこの地球上で生きて行くうえでの道具です。その奥に生き通し
である命の本質があります。 命の本質に気づく時、もはや物質世界の現れに一喜一憂する事
はなくなるでしょう。
勿論世事の憂い、悩み苦しみがきれいさっぱりなくなってしまうわけではありませんが、それらを
超えた新たな世界が広がってきます。 
今・ここ・この時が幸せでないならば、どこにも幸せはありません。
心のそこから湧き上るフィーリングに素直に従ってみることです。 
真実はあなたからあらゆる束縛を解き放ってくれるでしょう。
命の本質を見つめて全てが一体である事を観ずるとき、もはや恐れる事も心配する事も何も
ありません。 自然の懐に抱かれた大安心の中で毎日の生活を感謝と供に生きて行く事が
出来るのです。  小鳥も人もあらゆるものが、愛と調和と感謝の中で生きていけるように
そもそも作られているものなのです。        (06/3/3)

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